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行事のお知らせ

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2015/06/03

(終了)[6/4(木)~17(水)]原爆と戦争展 開催のお知らせ

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 広島大学中央図書館で、下記の展示が開催されます。




 主催:「原爆と峠三吉の詩」原爆展を成功させる広島の会
 場所:中央図書館 地域・国際交流プラザ
 日時:平成27年6月4日(木)~17日(水) 

 ライブラリーホールで、8日、9日の2日間「被爆体験を聞く会」を開催します。
 詳細は、下記をご覧ください。

 入場無料・予約不要です。
 ぜひお越しください。

 URL:https://www.lib.hiroshima-u.ac.jp/?page_id=338


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●被爆体験を聞く会 詳細
 下記の通りの時間帯で、4名の方が証言します。
 入場無料・予約不要です。お気軽にお越しください。

6月8日(月) 12:50~14:20
■林  信子(はやし のぶこ)  (被爆当時17歳)        
 看護学生(昭和21年の卒業)として千田町の日赤病院にいて被爆。部屋の中で仕事をしているときにピカッと黄色か緑色の光を感じ、その後の爆風でものが落ちてきて記 憶をうしなう。気がついてからは、日赤看護婦としての使命感で、患者さんや運び込まれた被爆者の救護活動に10月半ばまで従事した。木造の学生寮にいた同級生は建物 の下敷きになって無惨に亡くなった。ロビーは被爆者であふれ、水を求める悲痛な声がいまだに耳から離れない。朝になると多くの人が息絶えていた。あのような恐ろしい ことを二度とくり返してはならない。

6月8日(月) 14:35~16:05
■上田 満子(うえだ みつこ)   (被爆当時13歳)
 当時女学生で、東練兵場に毎日作業に出ていたが、8月6日は休みで市内上柳町の自宅にいて被爆。母親と弟の3人で下敷きになった家の瓦礫から必死にはい出したが、3 歳の弟の顔はサッカーボールのように大人以上に腫れ上がって、火ぶくれがたくさんできていた。母も右半身火傷をして、顔は赤紫色に腫れ上がっていた。8月23日の  朝、弟はうわごとをいいながら亡くなり、母も全身に小豆色の斑点がでて、1週間後には亡くなった。戦後は、原爆に負けてたまるかという気持ちで、幼い妹たちの母親代 わりとなって、差別にも負けずに乗り越えて生きてきた。

6月9日(火) 12:50~14:20
■高橋  匡(たかはし ただし)  (被爆当時19歳)
  旧日本銀行広島支店横の富国生命ビル(爆心地から380メートル)の地下で被爆。当時、広島電信局に勤務。倒れた壁の下から手だけを出して「高橋さん助けて」といわ れたが、「後で来ますから」といって名前も聞かずにその場を立ち去ったことをいまでも後悔している。周りが火の海となり、逃げ遅れた十数人が手押しポンプで水をかけ ながらはげましあい、その間に炎や煙の竜巻に三回襲われ、危うく命を落としかけた。その時生き残った者も多くが9月上旬までに原爆症を発症し、苦しみながら次々に亡 くなっていった。核と人類は共存できない。生き残った者として、核廃絶のために生ある限り語り継ぎたい。

6月9日(火) 14:35~16:05
■真木 淳治(まき じゅんじ)   (被爆当時14歳)
 当時中学3年生で、今の舟入高校の近くの軍需工場に学徒動員で出ていて被爆。顔半分と腕などにひどい火傷をおい、友人と一緒に、己斐から横川をまわって、その日のう ちに牛田の下宿まで帰った。腕にウジ虫がわいた。姉が看護婦をしていて、良い薬があったのと、親が迎えにきてくれて、すぐに田舎に帰って療養できたために、ケロイド の跡もめだたなくなった。当時は、学校にいってもほとんど勉強することはなく、工場や建物疎開作業に動員され、多くの学友が原爆の犠牲になって亡くなった。被爆の体 験を次の世代に伝えることが自分の使命だと思っている。原爆は昔の話ではなく、今の問題だということを伝え、若い人達に平和で安全な国をつくってもらいたい。
11:26 | プラザ